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田中広輔氏が1年間の勉強期間を経て、内野守備走塁コーチとしてカープに帰ってくる。
見出しを見た瞬間、コーヒーカップを持つ手が止まった。
朝刊の横にスマホを置いて、同じ記事をもう一度読む。
田中広輔カープコーチ就任。
その並びを目で2回なぞったところで、胸の奥がじわっと温かくなってきた。
3年連続Bクラスで終わった秋に、まさかこんな知らせが届くとは…
ネットも朝からお祭りだったらしい。「マジか!」「これは激アツでしょ」と、驚きと喜びがいっぺんに噴き出したような声が並んだ。
そりゃそうなるでしょう。
3連覇は過去のこと その一言に背筋が伸びた
カープ球団の発表は10月31日。1軍か2軍かはまだ決まっていないけれど、担当は内野守備と走塁だ。
実は昨年の退団時にも打診はあったそうで、本人はその話を頭の片隅に置いたまま、解説の仕事をこなし、社会人チームの指導にも出向いていた。
遠回りに見えて、ちゃんと準備の1年だったわけだ。
会見でいちばん響いたのは、この言葉だった。
「よく3連覇したと言われますが、それは過去のこと」
ピシャリ。自分の勲章を、自分の手でそっと棚に戻してみせた。
そのうえで「失敗した経験が財産になっているので、それを伝えていきたい」と続けたところがいかにもあの男らしい。
でもね、この「失敗」という一語。さらっと読み流すには重すぎるんですよ。
8割3分3厘の秋と635で止まった夏
覚えてるかな、2016年のCSファイナル。
マツダスタジアムで迎え撃ったDeNA相手に、1番ショートの小さな背中はもう手がつけられなかった。12打数10安打、5四球。
打率8割3分3厘、出塁率は8割8分2厘。いま書き写していても冗談みたいな数字だけどほんとうにそうだった。
第4戦を迎える時点で、凡退は第2戦の3打席目だけ。その第4戦でも2アウト1、2塁からライト前へはじき返し5回には三遊間をしぶとく破った。
打球がゴロゴロと芝を転がっていくあいだ、マツダスタジアムのスタンドの赤いメガホンがいっせいに鳴った。隣の席の誰かのビールがこぼれて、それでも誰も怒らない、そんな夜だった気がする。
MVPに選ばれても本人は「飛んでくれたコースが良かったです!タイムリーヒットになって良かったです!」と笑うだけ。
25年ぶりの日本シリーズ出場を決めた男が、まるで他人の手柄みたいに話すんだから。
あのシーズンは143試合すべてにフルイニング出場。102得点に28盗塁、菊池と丸へバトンをつなぐタナキクマルの先頭打者だった。
翌2017年は盗塁王と最高出塁率。2018年にはゴールデングラブ賞も手にしている。
連続フルイニング出場は2015年4月1日から始まって、635試合まで伸びた。当時の歴代6位。
ところが2019年、バットがぴたりと沈黙する。春から打率は1割台を行き来して、それでもショートの位置には毎日あの人がいた。
6月20日のロッテ戦。スタメン表に名前がなかった。
夏が終わるころ、右膝の半月板の部分切除手術が発表される。膝はとっくに限界を超えていたんだ。
痛む脚をスパイクに押し込んで、何食わぬ顔で守備位置へ駆けていく。誰にも弱音を吐かずに、きっとそうしていたんだろう。
休まないことが誇りだった人が、休み方を知らないまま折れてしまった。635という数字の重さは、その悔しさの重さでもあると思う。
そこからの後野球人生は、ほろ苦い場面のほうが多かった。通算1203試合、打率2割5分6厘、965安打、69本塁打、348打点、131盗塁。
1000安打まで、あと35本。そこで終わった。
だからこそだ。「困った時にしっかりした答えを出せるような準備をしたい」という一言がただの抱負に聞こえない。
いちばん困ったときを、いちばん深いところで知っている人の言葉だから。
開幕4番を任されて、打てない時期にもがき抜いた2年目の佐々木泰。秋にはアジアプロ野球チャンピオンシップの日本代表にも選ばれた。
そういう若い内野手が壁にぶつかった夜そばにあの人がいる。想像しただけでなんだか肩の力が抜ける。
主を失ったショートには勝田がいて、ドラフト1位の山里も入ってくる。全員が「1番ショート田中広輔」の背中をどこかで見て育った世代のはずだ。
もちろん、浮かれてばかりもいられない。今季は4位で3年連続のBクラス。
小園がチームを去って、遊撃のレギュラーはまだ白紙のまま。新人コーチひとりで埋められる穴じゃないことも正直わかっている。
名選手がそのまま名コーチになる保証はどこにもない。コースケだって「いきなりジャンプアップはできない。地道にコツコツ」と言っている。
その慎重さがかえって頼もしかった。
来年の春に泥だらけの選手の後ろに立つ
新井監督とまた同じユニホームで戦えることを本人は「楽しみ」と言い、同じ口で「責任」とも言った。浮かれずひるまず。
あの人の野球はずっとそうだった。
春のキャンプで乾いたノックの音がカーンと響く。ショートの若手が泥だらけで飛びつき、すかさず「もう一丁」と声が飛ぶ。
ノックを受ける選手の後ろで身振り手振りで教える、そんな光景が見たくてもう来年の春が待ち遠しい。
マツダスタジアムの土の上に田中広輔がまた立つ。今度は打席でも守備位置でもなく誰かの一歩後ろに。
1番ショートの物語はまだ終わっていなかったんだよね。


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